有言不実行派を一方的に擁護するお話
「私は有言不実行な人間です」と言われると、単純に不誠実な人間だと捉えられるかもしれない。
嘘つきとまではいかなくとも、やるといった事をやらないのだから、少なからず誠実ではない、そんな風に考えられる。
私は自身が有言不実行な人間だと自覚していて、そのせいで他人に幾度となく迷惑をかけており、一応反省もしている。
迷惑はかけないように心がけている。
でも本質的には治らない。
というよりも、あまり治そうとは思っていない節がある。
そもそも、どうして有言するのに不実行なのか。
有言するからには、やる必要性を感じていたり、自身がやりたいと感じているわけで、だからこそわざわざ言葉にするわけである。
重要性、やる意義は理解している。周りに宣言して自分を追い詰める。
でもできない。
理由はいろいろある。だが大抵は、思いのほか順調にいかないからだ。
すべての物事が順調にさくさく行けば、なんとすばらしいことか。
もしかすると、有言実行派の人からみれば「計画性がないだけだ」となるのかもしれない。
しかし、計画が立てられるようなものというのはそう多くはない。
有言不実行派の人は、新しく何かをやろうという時に、ブログやらツイッターやらで宣言したりする。
この「新しく何かをやろう」とするときに計画性なんてものはあまり役に立たない。
実際にやってみて、失敗したり成功したりといった経験を通して計画性というものは培われる。
最初からうまくなんていかない。
いくら有言不実行派の人でも、「今から風呂入る~」という有言を不実行することはあまりない……と思う。
それは今まで何度も風呂に入ってきているし、体を洗うのにどれくらい時間がかかって、どういったボディーソープを使えばいいのかがわかっているからだ。
それでも、「風呂に入ろうと思ったら兄弟に先越された!」というような計画外の事件が発生すれば、面倒になって「風呂に入るのは明日でいいや」となるかもしれない。
さすがにそんなことまで普通計画しない。仕事なら別だろうけれど。
要するに有言不実行というのは、ろくに計画の立てられない新しい何かに挑戦するときには、かなりの確率で発生する現象ということである。
年を重ねて人生経験を積み、あらゆる物事を体系化していけばもう少しうまくやれるのかもしれないが、まあそれは好きにすればいいと思う。
ただ、不実行だったからといって無駄になるなんてことはまずない。
一度宣言している分、脳にはこびりつく。そういうのが堆積していって面白いものができたりする。
そんなこんなで、他人に迷惑をかけるのはあまりよくないけれど、自分自身に関する事柄なら、どんどん有言不実行すればいいと思う、というお話。